Category : 日本の歴史

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近藤勇と小栗忠順

2015年05月20日

近藤勇と小栗忠順


 さまざまな企業の決算発表が続く中で、大変に違和感のある話題だと思いますが、どうしてもこの時期に書いておきたかったテーマです。

 新暦に換算して1868年5月17日に新撰組隊長だった近藤勇が、同5月27日に徳川幕府の勘定奉行兼陸軍奉行だった小栗忠順(ただまさ)が、それぞれ明治新政府により処刑(斬首)されました。本日は両名の命日に近いからです。

 両名とも幕末期に幕府のために重要な役割を果たし、その実績・人望とも申し分なかったものの、明治維新で体制が完全に逆転したため罪人として処刑されてしまい、いまだにその名誉が回復されていません。

 何事も形式だけを重視する日本の歴史では、明治維新とは鳥羽・伏見の戦いが始まった直後の1868年1月4日に、薩摩・長州藩を中心とした新政府軍に「錦の御旗」が翻ったことで15代将軍・徳川慶喜が率いる幕府軍が朝敵となった瞬間に「成立」したことになっています。

 教科書的には前年の10月14日に、将軍・慶喜は大政を奉還して江戸幕府は消滅していました。しかし慶喜はまだ幕府所領の700万石(全国所領の約4分の1)と、8万人の幕閣による優秀な行政能力と、フランス式に訓練された2万4000人の精鋭部隊と新鋭兵器を支配する「圧倒的強者」でした。

 一方で明治新政府とは、まだ15歳の明治天皇を権威として戴くものの経済基盤も軍事基盤も大きく見劣りするものでした。その中心メンバーも岩倉具視に薩摩・長州・土佐藩らの下級藩士を加えた「寄せ集めの弱小政府」に過ぎませんでした。

 ところがこの「負けるはずがない」幕府軍を率いる慶喜が「錦の御旗」をみた瞬間に怖気づき、全てを放置したまま江戸に逃げ帰り寛永寺で謹慎してひたすら自らの延命を図り、その全てを奪い取った明治新政府がやっと本格的政府になれたのが明治維新の真相です。

 この1868年1月4日をもって、それまで朝敵だったはずの長州藩と、その長州藩を京都から追放した(禁門の変)はずの薩摩藩が突然に明治新政府の中枢に座り、最後まで幕府のために戦っていた各藩が(幕府の命を受けて朝廷のある京都警護を担当していた会津・桑名藩まで)突然に朝敵とされてしまいました。

 新撰組とは1863年頃、京都守護職を務める会津藩主・松平容保(かたもり)が幕府老中から京都の治安維持のために浪士を差配することを認められ、近藤勇ら17名が会津藩に嘆願書を提出して会津藩預かりとなり(その後に幕臣となる)将軍在京中の市中警備を担当したところが始まりです。

 新撰組はその後200名ほどの大所帯となり目覚ましい活躍をみせます。鳥羽・伏見の戦いの最中、突然に朝敵とされるものの徹底抗戦を続け、最後は江戸を目指す新政府軍と甲州勝沼で激突して捕えられ処刑(斬首)されてしまいました。

 小栗忠順は、2500石の旗本・小栗忠高の子として生まれ、幼少から文武両道に秀でた秀才でした。1853年にペリーが来航すると、その後は次々と来航する異国船に対応する詰警備役となり、積極的な通商と自前の軍艦建造などを主張するようになりました。

 そして1860年には幕府の遣米使節目付として渡米し、帰国後は幕府の財政・経済・軍事全てを取り仕切り勘定奉行と陸軍奉行を兼務するようになりました。

 慶喜が江戸に逃げ帰った直後も徹底抗戦を主張しますが、自らの延命しか考えない慶喜に退けられ罷免されてしまいました。これはどう考えても小栗が主張したように、幕府は経済的にも軍事的にも「負けるはずが」ありませんでした。

 小栗忠順は新政府軍に捕らえられ、取り調べもされないまま処刑(斬首)されてしまいました。

 明治維新については、薩摩・長州藩に米南北戦争終結で余った武器を売りつけて巨万の富を得たトーマス・グラバーの手先だった坂本龍馬がなぜか英雄視され、その間でうまく立ち回った岩崎弥太郎が三菱グループの創始者となり、政界では長州閥が中心となり明治新政府を取り仕切ってしまいました。

 それらをみるにつけ、(ほかにも数多くいますが)近藤勇や小栗忠順の運命はあまりにも悲しく不条理です。

 そのほんの一部でも理解していただきたく、本日の記事となりました。


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昭和史最大の謎・近衛上奏文  最終回

2012年08月15日

昭和史最大の謎・近衛上奏文  最終回

 2日ほどお休みしてしまいましたが再開いたします。本日(8月15日)は終戦記念日なので、このシリーズの最終回を書くことにします。

 日中戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」直前の1937年6月4日に首相に指名されたのが五摂家筆頭の近衛家当主の文麿でした。本日はこの近衛文麿の戦争責任と、それがどうやって「近衛上奏文」につながっていくのかを考えてみます。

 近衛は首相就任直後から迷走します。日中戦争が始まった直後は中国国民軍との間で何度か停戦交渉がまとまりかけていたのですが、近衛はその都度「北支派兵声明」を独断で新聞発表したり、陸軍から要求も出ていない「北支関連軍事予算」を増額したり、挙句の果てに石原莞爾がセットした蒋介石との首脳会談を直前でキャンセルしてしまいます。

 結果的に日中戦争は泥沼化してしまい、蒋介石の国民軍を米国と英国が支援しているからだとの「反米英感情」が湧き上がり、第一次近衛内閣は1939年1月5日に総辞職します。

 その後を継いだのが大審院検事局検事総長・大審院長(今の最高裁長官、当時は大審院の中に検察庁と裁判所が入っていた)・司法大臣を歴任した平沼騏一郎でした。

 平沼は関東軍がソ連国境のノモンハンで大敗すると、ドイツと軍事協定を結び反共制力を結集して(平沼は国粋主義者)ソ連に対抗しようとしていたのですが、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると狼狽して辞職してしまいました。
 
 ドイツは独ソ不可侵条約締結直後にポーランドに侵攻し、それを見た英国・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。ドイツはたちまちパリを陥落させ各地で快進撃を続けます。そこで日本の中には再びドイツ(イタリアも)と軍事同盟を結ぶべしとの意見が陸軍を中心に盛り上がります。勝ち馬に乗ろうとしたものです。

 そうした中の1940年7月22日に、第二次近衛内閣が発足します。

 そして就任直後の同年9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結されるのですが、これは外相に指名した松岡洋右や陸軍首脳らの「積極推進派」に近衛自身がすっかり影響されてしまったものです。昭和天皇は最後まで乗り気でなかったようです。

 同じ頃にドイツの猛攻に降伏状態となっていたフランスとオランダの植民地・インドシナへ侵攻します。石油などの資源確保のためなのですが、これが米国の対日石油輸出禁止(1941年8月1日)を引き起こして、日米開戦の直接的理由となってしまいます。

 1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻するのですが、日本はその直前の同年4月13日に日ソ中立条約を締結します。まるでソ連が間もなく始まるドイツの侵攻に集中できるように日本が協力したようなタイミングでした。

 1941年9月になると近衛は、日米首脳会談で解決を図ろうとするのですが米国に完全に無視され、また同年10月14日にブレーンの1人だった尾崎秀美(ほつみ)がスパイ容疑でゾルゲとともに逮捕され、10月18日に政権を投げ出します。

 同年11月26日に米国から最後通牒とも言えるハル・ノートが届きます。日本の中国とインドシナからの完全撤退を要求するものでしたが、このハル・ノートの原案はルーズベルト政権に入り込んでいたコミンテルンのスパイのハリー・デクスター・ホワイトが書いたものでした。

 そして東条英機内閣の1941年12月8日に真珠湾攻撃によって日米開戦となります。

 ここで「日中戦争が始まり、かつ泥沼化したこと」「インドシナ侵攻(日本のソ連侵攻がなくなり、かつ米国を刺激した)」「日ソ中立条約(前述)」「日米開戦(米国にドイツと戦争中の英国を助ける口実を与えた)」など、日本の行動はすべてソ連(スターリン)の利益となるもので、そのほとんどが近衛内閣で決定(実質的決定も含む)されているのです。

 それは近衛自身がコミンテルンの影響を受けていたのではなく、近衛の性格が「一貫した信念の欠如」「周囲に影響されやすく思い込みが激しい」「基本的に人望がない」であり、また五摂家筆頭の当主として「昭和天皇の意向も平然と無視する」「自分だけは特別と思っている」という特殊な考え方をしていたからです。

 そして敗戦が避けられなくなった1945年2月14日に「天皇制維持のため、日本の共産化を防ぐ」ために早期の停戦を上奏したのが「近衛上奏文」です。しかしこれもその直前に親しくなった吉田茂の影響がかなりあります。昭和天皇が聞き入れなかった理由は、近衛が陸軍首脳の更迭後の首脳として推薦したのが何と「2.26事件」で表舞台から消えていた「皇道派」の真崎甚三郎だったからです。これも近衛の性格をよく表しています。

 近衛は終戦後もマッカーサーに取り入り、新憲法の構想を伝えたりします。そして恐らく「夢にも予想しなかった」A級戦犯に指定され、1945年12月16日に服毒自殺してしまいます。

 結局「近衛上奏文」とは、自らの数々の「失政」が日本を戦争に向かわせたところを「共産主義にやられた」と言い訳して、さらに終戦後も天皇制と自分はそれなりの立場を維持するための「私案」だったことになります。確かにコミンテルンや共産主義の「影」もあちこちにあるのですが、やはり当時の政権と軍部(特に陸軍)首脳の責任が大きいことになります。

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昭和史最大の謎・近衛上奏文  その6

2012年07月31日

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その6

「2.26事件」の続きです。昨日は青年将校の行動開始を受けた「皇道派首脳部」の思惑について書きました。

 ところが翌2月27日午前3時、早期の鎮定を望む昭和天皇の意向をうけて枢密院が戒厳令を施行し、九段の軍人会館(今の九段会館)に戒厳司令部が設置されます。そして何と青年将校に近い「皇道派」の香椎浩平中将が戒厳司令官に任命されます。

 当然に戒厳司令部の役割は事態の鎮定であり、そのための武力行使も求められるのですが、香椎はなかなか行動を起こしません。表向きの理由は「皇軍相撃」を避けるためですが、ついさっきまで青年将校の行動開始を利用して真崎の首相就任などを含む勢力拡大策を練っていた「皇道派」の中心にいたからです。

 天皇はイライラして遂に「自ら近衛師団を率いて鎮定にあたる」と言い出します。つまり重臣を暗殺すれば天皇親政が始まるという「皇道派の理論」は全くの絵空事だったのです。

 ここに至り荒木・真崎・山下らの「皇道派首脳」は表舞台から消えてしまうのですが、香椎だけは「努力」を続けます。翌28日の午前5時に「反乱軍」に対して「原隊に復帰せよ」との奉勅命令(天皇からの直接命令)が出るのですが、香椎はあくまでも「説得」のためと命令の実施を延期させます(結局は同日正午過ぎに実施)。

 そして翌29日の午前8時半に攻撃開始命令がでて(実際は攻撃されなかった)、午後2時ころまでに兵は原隊に復帰し、主導した青年将校は夕刻までに自決した2名を除き全員が逮捕されました。

 結局「2.26事件」とは、共産主義やコミンテルンの影響は認められないものの、不況による国民(特に農民)の悲惨な生活を打破すべく行動を起こした青年将校によるクーデターだったことは間違いありません。ただその背景となった「皇道派の理論」があまりにも稚拙であり、しかも途中から保身に走った「皇道派首脳」に梯子を外され「反乱軍」のレッテルを貼られたことなどが悲劇でした。

 その裁判は、緊急勅令による特別軍法会議が設置され、一審即決で非公開、弁護人なしという異様なものでした。これには「皇道派」に主導権を奪われていた「統制派」の強烈な反撃という側面もありました。

 判決は民間人の北一輝・西田税を含む18名が死刑判決でした。北とその弟子の西田まで死刑になっているのは、事件の構成上「青年将校に直接影響を与えた」思想的裏付けが必要だったからで、この辺からも共産党青年将校による軍事クーデター説が残るのです。

 「皇道派首脳」の荒木・真崎・香椎は間もなく予備役に編入され、山下奉文は南方戦線に転属となり終戦後にマニラの軍事法廷で死刑となります。「皇道派」は完全に消滅となりました。

 また真崎は事件の「黒幕」として翌1937年1月に軍法会議で起訴されますが無罪となりました。また特別軍事法廷の裁判を担当した匂坂(さきさか)春平・陸軍法務官は、昨日書いた「陸軍大臣告示」の「真意」を「行動」に故意に書き換えたとして香椎浩平の起訴を本気に考えていたようですが、最終的に不起訴になりました。

 その後の日本は、斬殺された永田鉄山を継いだ「統制派」の東条英機が主導することになって行くのです。

 なお青年将校らが立て籠もった赤坂の料亭「幸楽」は、その後ホテル・ニュージャパンが建ち1982年の火災で33名が死亡し、戒厳司令部のあった現在の九段会館は昨年の東日本大震災で天井が崩落して都内唯一の死者(2名)を出しています。あまりこういう表現は使いたくないのですが、何らかの因縁を感じざるを得ません。

 最後に、参考文献を明らかにせよ、とのコメントを頂いていますので書いておきます。

 書物で特に参考にしたのが、松本清張「昭和史発掘」、半藤一利「あの戦争になぜ負けたのか」、保坂正康「仮説の昭和史」上下(最近の出版です)などですが、実は一番参考にしたのが1979年2月26日にNHKで放送されたドキュメンタリー「226事件秘話」で、その後「226事件秘話続編」も放送されています。

 どちらもNHKのライブラリーに入っていますが、ユーチューブにもアップされています。
正直に思うのは「昔のNHKは良い番組を作っていたんだなあ」です。

 この「昭和史最大の謎・近衛上奏文」シリーズは、終戦記念日までにあと3回ほど書き、本誌なりの結論を出そうと思います。

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昭和史最大の謎・近衛上奏文  その5

2012年07月30日

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その5

 少し間が空きましたが、本日は「2.26事件」についてです。

 1936年2月26日未明、日本陸軍・皇道派(後述)の青年将校らが1483名の兵を率い「昭和維新・尊王討奸」を掲げて元老重臣を殺害して天皇親政を実現しようとしたもので、斉藤実・内大臣(元首相)、高橋是清・蔵相、渡辺錠太郎・陸軍教育総監らを殺害しました。

 まずこの時代の日本陸軍は、荒木貞夫や真崎甚三郎を中心として「天皇親政」による国家改造を説く「皇道派」と、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく「国家総力戦体制」を目指す「統制派」に分かれて対立していました。

 精神論が中心の「皇道派」と、理論的に戦略を考える「統制派」の違いなのですが、1935年8月12日に「統制派」の中心人物である永田鉄山・陸軍軍務局長が執務室内で「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。「皇道派」の真崎甚三郎・教育総監が罷免された報復でした。

 つまり「2.26事件」の直前は、「統制派」が一時的に勢いを失い「皇道派」が勢いを取り戻しつつある時期でした。

 しかし「2.26事件」とは「皇道派」の青年将校が皇道派の目指す天皇親政を求めて行動を起こしたものなのですが、かといって「どうして重臣を殺害すれば天皇親政が実現すると考えたのか?」つまり近衛上奏文の言う「共産主義の影響は無かったのか?」と、「そもそも大尉クラスの青年将校が軍(皇軍)を何の権限で動員出来たのか?」つまり「皇道派の上層部が了解もしくは指示を与えていたのではないか?」という2つのポイントに絞って考えてみます。

 まず前者ですが、「昭和維新・尊王討奸」は「皇道派」の基本的な考えで、それが理論的に稚拙すぎることは明らかなのですが、かといって共産主義とも関係がありません。「2.26事件」とは共産党系青年将校の起こした軍事クーデター説が根強いのですが、単に「皇道派の理論」に沿って行動しただけです。

 青年将校に理論的影響を与えたのが国家的社会主義の北一輝であったところから出てきた説ですが、実際にはどの程度の影響力があったのかは疑問です。

 それより問題は後者です。

 確かに2月26日の行動開始は、まさに世界不況の真っただ中で特に農民の悲惨な状況を純粋に打破したかった青年将校の「フライング」ではあるものの、その考え方自体は「皇道派上層部」が日頃常に口に出していたものでした。つまり上層部が「口に出すだけ」だったものを青年将校が「実行」してしまったのです。

 しかし、いざ青年将校が行動を開始してしまうと「皇道派上層部」にはさまざまな思惑が浮かびます。ここでいう「上層部」で特に重要なのが、前述の荒木貞夫(元・陸軍大臣)と真崎甚三郎(元・教育総監)のほか、香椎浩平・東京警備司令官(中将)、山下奉文・陸軍省軍事調査部(少将)の4名です。

 まず、事件発生当日の2月26日の午後(詳しい時間は諸説あり正確には分かりません)、山下奉文が青年将校の代表に「陸軍大臣告示」を読んで聞かせたと「されて」います。

 その内容は(現代文で書きますと)、「君たちの行動は、国体の真の姿を現したものと認める。そのことは天皇陛下の耳にも入っている。軍事参議官(後述)も陸軍大臣もそう思えばこそ、心を新たにして天皇陛下のお気持ちを待つことにする」というものです。

 当然に青年将校は喜ぶのですが、「当たり前のことが確認できた」だけだったはずです。

 ところが、この「陸軍大臣告示」を起草した軍事参議官会議では、最初の「行動」が「真意」となっていたのです。全く意味が違います。つまり「真意」が分かると言っているだけで「行動」を分かったとは言っていないのです。

 ここで軍事参議官会議とは天皇の諮問機関なのですが、当日は諮問されていないため非公式に集まっただけでした。実際は当日早朝に川島義之・陸軍大臣が天皇に状況を報告し「速やかに鎮定せよ」と命じられています。従ってそもそも「陸軍大臣告示」とは何のために作られたのかもはっきりしません(単に「陸軍大臣より」だったとの説もあります)。実際は当日の軍事参議官会議で「皇道派」の荒木・真崎の主導で作成されたのですが、さすがに「行動」ではなく「真意」となっていたのです。

 つまりこの時点で「皇道派首脳」である4名は、とりあえず青年将校の「士気」が下がらないように時間を稼ぎ、その効果を最大限に利用しようとしたのです。その目的とは陸軍首脳を「皇道派」で独占するだけでなく、真崎甚三郎を首相にして維新改造内閣を主導し、(軍事行動を見せつけることによって)天皇も意のままに扱い、その威光を最大限利用して「皇道派が日本を支配する」ことだったのです。

 まさに現在まで続く「官僚組織の考え方」そのものなのですが、その思惑はたった半日で崩れ去ることになり、また新たな「思惑」が始まるのです。

 続きます。

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昭和史最大の謎・近衛上奏文  その4

2012年07月24日

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その4

 しばらく中断していましたが続けます。前回の7月19日付け「同、その3」の中で「張作霖爆殺事件」は、関東軍の仕業に見せかけたコミンテルンの犯行の可能性が強いと書いたところ、いくつか異論を含むコメントを頂きました。

 日本が満州事変・支那事変(日中戦争)・大東亜戦争(日米戦争)と引きずり込まれていった最初のきっかけがこの「張作霖爆殺事件」であり、ここから日本の運命が大きく暗転し始めたのです。そこで、もしこれが通説(関東軍の仕業)通りではなかったとすると、その後の「景色」が大きく違ってくると思うのです。

 このシリーズは、あくまでも通史のつもりだったのですが、これだけはもう一度詳しく検証してみます。もちろん「客観的状況」だけを積み上げて書いていきます。


張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説1
張作霖爆殺事件1
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 現場写真です。上が事故直後の写真(そもそも何でこんな事故直後の写真があるのかも不思議なのですが)、真ん中は少し角度が違うのですが煙も無く鮮明な写真、下が爆破された車両の写真(張作霖が乗っていた車両だとされています)です。

 真ん中の写真で解説しますと、写真の真ん中下部の線路が張作霖を乗せていた北京からの線路(中国の京奉線)で、上の方に見えるのが満鉄の線路です。爆薬はこの2つの線路が交差するところの満鉄の(高架になっている)橋脚に仕掛けられていたとされており、満鉄の橋脚が大きく破損しているのが分かります。下の写真では車両の天井部分が大破しおり、列車より高い(橋脚の)部分に爆薬が仕掛けられていたことになります。

 素朴に思うのは「なぜこんな難易度の高い爆殺方法を選んだのだろう?」です。張作霖を乗せた車両は20両の特別仕立てで、張作霖の座席は特定できていたとしても「必ずそこを通過するときに座っているとは限らない」からです。それよりも走っている列車(奉天駅に近づいているのでスピードは落ちていたはずですが)をピンポイントで爆破して、そこに座っている(だろう)特定の人間を爆殺するのは非常に難しいはずです。

 実は張作霖の席のすぐ近くに、日本陸軍参謀本部付で張作霖軍事顧問の儀我誠也少佐が座っていたのですが「かすり傷」だったようです。これは伝聞なのであくまでもご参考ですが、儀我少佐は事故直後に「張作霖も私もかすり傷で、張作霖は車で自宅に帰った」と報告しています。この時代に車が「都合よく」近くにあったというのも不思議で、張作霖は帰宅後あるいは帰宅中に殺された可能性もあるのです。

 事件が関東軍の仕業とされる最大の根拠が、昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職です。しかしこれは田中首相が事件直後に昭和天皇に「首謀者河本らを処罰し遺憾の意を表する」と上奏しておきながら1年も放っておき、再々のご下問に対し「うやむやの中に葬りたい」と答えたので昭和天皇が激怒したのです。

 従って田中内閣の総辞職は事件から1年もたった1929年6月(事件は1928年6月4日早朝)であり、昭和天皇激怒の理由は「関東軍の暴挙」ではなく「田中首相の優柔不断」だったのです。

 首謀者とされる河本大作大佐ですが、自ら書いたとされる「私が張作霖を爆殺した(文芸春秋・1954年12月号)は、実は河本の義弟・平野零児の作で、河本本人の口述であるかどうかが全く確認できません。

 なぜなら河本大作は事件後に更迭されて(予備役に編入されるも軍法会議にはかけられていません)退役し、何と満鉄理事(大変なエリートです)に就任し、その後は国策会社の山西産業株式会社社長となり、終戦後も中国で生活していたのです。

 そして戦後は中国国民党に協力して中国共産党と戦い、1949年に中国共産党の捕虜となり戦犯収容所で1955年に亡くなっています。客観的に考えて日本のマスコミに記事もしくは口述を与える機会は無かったはずです。

 最後に、河本主犯説を決定づけたのが東京裁判における検察側証人の田中隆吉・陸軍少将の証言です。田中隆吉は数々の謀略に加担しており(川島芳子を籠絡したのも含め)、ゾルゲとも交流があり一番コミンテルンに近かった軍人ですが、自らは戦犯指定を免れています(注)。そして東京裁判では次々に検察側に有利な証言を行い、何人かのA級戦犯の有罪判決に「決定的な影響を与えた」人物です。

 この田中証言が戦後において「決定的証拠」とされているのです。

 以上から本誌は「確かに爆薬を仕掛けたのは河本大佐・東宮大尉であるが、これは単なる警告の意味で暗殺の意思はなかった。ところがその情報を何らかの形で入手したコミンテルン(あるいはソビエト特務機関)が、それに乗じて暗殺した」と推測します。


(注)実名は挙げませんが、本誌がコミンテルンに近いと「推測」する軍人は、すべてA級戦犯となっています。その辺はGHQも調査していたはずなので、田中隆吉は「コミンテルンと米軍の二重スパイ」の可能性があります。

 佐藤優氏は評価されているようですが、本誌は「日本陸軍最悪の軍人」だと思います。

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