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昭和史最大の謎・近衛上奏文  最終回

2012年08月15日

昭和史最大の謎・近衛上奏文  最終回

 2日ほどお休みしてしまいましたが再開いたします。本日(8月15日)は終戦記念日なので、このシリーズの最終回を書くことにします。

 日中戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」直前の1937年6月4日に首相に指名されたのが五摂家筆頭の近衛家当主の文麿でした。本日はこの近衛文麿の戦争責任と、それがどうやって「近衛上奏文」につながっていくのかを考えてみます。

 近衛は首相就任直後から迷走します。日中戦争が始まった直後は中国国民軍との間で何度か停戦交渉がまとまりかけていたのですが、近衛はその都度「北支派兵声明」を独断で新聞発表したり、陸軍から要求も出ていない「北支関連軍事予算」を増額したり、挙句の果てに石原莞爾がセットした蒋介石との首脳会談を直前でキャンセルしてしまいます。

 結果的に日中戦争は泥沼化してしまい、蒋介石の国民軍を米国と英国が支援しているからだとの「反米英感情」が湧き上がり、第一次近衛内閣は1939年1月5日に総辞職します。

 その後を継いだのが大審院検事局検事総長・大審院長(今の最高裁長官、当時は大審院の中に検察庁と裁判所が入っていた)・司法大臣を歴任した平沼騏一郎でした。

 平沼は関東軍がソ連国境のノモンハンで大敗すると、ドイツと軍事協定を結び反共制力を結集して(平沼は国粋主義者)ソ連に対抗しようとしていたのですが、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると狼狽して辞職してしまいました。
 
 ドイツは独ソ不可侵条約締結直後にポーランドに侵攻し、それを見た英国・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。ドイツはたちまちパリを陥落させ各地で快進撃を続けます。そこで日本の中には再びドイツ(イタリアも)と軍事同盟を結ぶべしとの意見が陸軍を中心に盛り上がります。勝ち馬に乗ろうとしたものです。

 そうした中の1940年7月22日に、第二次近衛内閣が発足します。

 そして就任直後の同年9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結されるのですが、これは外相に指名した松岡洋右や陸軍首脳らの「積極推進派」に近衛自身がすっかり影響されてしまったものです。昭和天皇は最後まで乗り気でなかったようです。

 同じ頃にドイツの猛攻に降伏状態となっていたフランスとオランダの植民地・インドシナへ侵攻します。石油などの資源確保のためなのですが、これが米国の対日石油輸出禁止(1941年8月1日)を引き起こして、日米開戦の直接的理由となってしまいます。

 1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻するのですが、日本はその直前の同年4月13日に日ソ中立条約を締結します。まるでソ連が間もなく始まるドイツの侵攻に集中できるように日本が協力したようなタイミングでした。

 1941年9月になると近衛は、日米首脳会談で解決を図ろうとするのですが米国に完全に無視され、また同年10月14日にブレーンの1人だった尾崎秀美(ほつみ)がスパイ容疑でゾルゲとともに逮捕され、10月18日に政権を投げ出します。

 同年11月26日に米国から最後通牒とも言えるハル・ノートが届きます。日本の中国とインドシナからの完全撤退を要求するものでしたが、このハル・ノートの原案はルーズベルト政権に入り込んでいたコミンテルンのスパイのハリー・デクスター・ホワイトが書いたものでした。

 そして東条英機内閣の1941年12月8日に真珠湾攻撃によって日米開戦となります。

 ここで「日中戦争が始まり、かつ泥沼化したこと」「インドシナ侵攻(日本のソ連侵攻がなくなり、かつ米国を刺激した)」「日ソ中立条約(前述)」「日米開戦(米国にドイツと戦争中の英国を助ける口実を与えた)」など、日本の行動はすべてソ連(スターリン)の利益となるもので、そのほとんどが近衛内閣で決定(実質的決定も含む)されているのです。

 それは近衛自身がコミンテルンの影響を受けていたのではなく、近衛の性格が「一貫した信念の欠如」「周囲に影響されやすく思い込みが激しい」「基本的に人望がない」であり、また五摂家筆頭の当主として「昭和天皇の意向も平然と無視する」「自分だけは特別と思っている」という特殊な考え方をしていたからです。

 そして敗戦が避けられなくなった1945年2月14日に「天皇制維持のため、日本の共産化を防ぐ」ために早期の停戦を上奏したのが「近衛上奏文」です。しかしこれもその直前に親しくなった吉田茂の影響がかなりあります。昭和天皇が聞き入れなかった理由は、近衛が陸軍首脳の更迭後の首脳として推薦したのが何と「2.26事件」で表舞台から消えていた「皇道派」の真崎甚三郎だったからです。これも近衛の性格をよく表しています。

 近衛は終戦後もマッカーサーに取り入り、新憲法の構想を伝えたりします。そして恐らく「夢にも予想しなかった」A級戦犯に指定され、1945年12月16日に服毒自殺してしまいます。

 結局「近衛上奏文」とは、自らの数々の「失政」が日本を戦争に向かわせたところを「共産主義にやられた」と言い訳して、さらに終戦後も天皇制と自分はそれなりの立場を維持するための「私案」だったことになります。確かにコミンテルンや共産主義の「影」もあちこちにあるのですが、やはり当時の政権と軍部(特に陸軍)首脳の責任が大きいことになります。

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