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書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その2

2011年05月17日

書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その2

 昨日の続きです。

 645年の乙巳(いっし)の変で、とにかく蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足ですが、すぐに天下を取ったわけではありません。
 中大兄皇子は、その後も数多くの謀略を張り巡らし、やっと668年に天智天皇として即位できるのです。

 しかし、中大兄皇子が即位するまでに最優先で取り組んだことは、律令制度の確立など国内のことではなく、無謀とも言える百済救済だったのです。
 つまり「大化の改新」という、国内の律令体制の確立には全く関心がなかったのです。

 660年に百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、大軍を百済救済のために派兵したものの、663年に白村江で全滅してしまったのです。また敗戦後は、筑紫や飛鳥に大がかりな国土防衛のための水城・土塁等を築きました。

 唐・新羅連合軍が日本に攻めてくるリスクは非常に大きかったのです。そこまでして百済を救済する必要がどこにあったのでしょう?

 蘇我氏は新羅の出身だったようです。だからそのころの天皇家には、百済を救済する必要は絶対になかったのです。

 さらに中臣鎌足は、それ以前の日本の歴史に全く出てきません。それが突然現れて、一応皇族の中大兄皇子に近づけたというのも不思議と言うか、あり得ない話です。

 それでは中臣鎌足は、いったいどこから来たのでしょう?

 あくまでも可能性の話ですが、中臣鎌足は日本に助けを求めに来ていた百済王族の一人ではなかったかと思います。ただ「日本書記」では「藤原氏」が宮司の中臣家が祖であるとしており、外来人だったとは全く書かれていません。
蘇我氏の世の中では絶対に百済は救済されないので、中大兄皇子を引き込んで蘇我氏を滅ぼし、百済救済をさせようとしたのが、意外に乙巳の変の真相だったのかも知れません。

 しかし、中大兄皇子は668年にやっと天智天皇として即位出来たのですが、中臣鎌足はその翌年に死んでしまいます。死の直前に藤原姓を天智天皇から賜ったようです。

 そして天智天皇も672年に死んでしまい、息子を即位させるものの、すぐに弟の大海人王子に皇位を奪われてしまいます(天武天皇)。

これが、壬申(じんしん)の乱で、史上初めての武力による皇位の交代だと言われています。

 ここで、せっかく天智天皇をたてて勢力をつかみかけていた藤原氏の野望は、一旦しぼんでしまいます。

  藤原鎌足の子の藤原不比等(ふひと)が世に出てくるのは、天武天皇が686年に亡くなり、皇后の持統天皇が即位してからです。持統天皇は天智天皇の娘で、藤原不比等をとりたてます。そして、ここで初めて本格的な律令体制の確立に取り掛かります。

 律令体制とは、全国の土地を全て天皇のものにし、各豪族は冠位・役職によって俸禄を受け取る政治形態です。そして税徴収のための戸籍の確定や、新田を開発した場合の規定などを設けるのですが、それを実質的に取り仕切ったのが藤原不比等で、その地位を利用して、全て将来の「藤原氏」の栄華の基本形を作ってしまったのです。
 
 その集大成が701年に制定された大宝律令で、編者は刑部(おさがべ)親王ですが、取り仕切ったのは藤原不比等です。

そして「日本書記」が720年に編集されます。これも取り仕切ったのは藤原不比等で、「藤原氏」を徹底的に正当化した歴史書で、1400年たった今でも何の疑いもなく読まれているのです。

 持統天皇以降、ずっと天智天皇系の天皇が続きます。そして藤原不比等は蘇我氏と同じように天皇の外戚となっていくのです。

 そして4人の息子に、別々の藤原家を作らせるのです。これは律令体制では各家1人しか役職に就けないので、四家に分けて役職を独占するのです。まさに「戦略は細部に宿っている」のです。この言葉は、現在の官僚組織を言い表した現代の言葉なのですが、その原型が藤原不比等なのです。

 つまり、天智天皇の娘の持統天皇に取り立てられた藤原不比等が、「大宝律令」と「日本書紀」を通じ、驚くなかれ、現代まで続く「藤原氏」の栄華の基本を作ったのです。

 歴史の教科書は、藤原氏の平安時代の栄華しか書いていません。単に歴史上の出来事なら、ここまで紙面を使いません。

 その後も、現代に至るまで「藤原氏」は日本の政治・経済に深くかかわっているのです。決して「藤原氏」の名前ではなく。

 続きます。

平成23年5月17日

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コメント
国有化・民営化
体制を変革する時、巨大な利権が生まれる。藤原氏は律令制度を作ることで、何十年もかけて土着豪族から財産を合法的に奪った。
「法による支配」とは、政権側からみれば舌先三寸で支配できる社会。ひどいことをしても法なら許される社会。(違憲立法審査権が機能しない社会での話)

律令を打破するには鎌倉武士の一所懸命・ご恩と奉公の精神を待たなければならなかった。
現代日本人に置き直せば、持つべきは遵法精神ではなく、職人魂と権利・義務のバランス感覚ということになるのだろうか。
日本政府は国際的に見て権利意識が乏しいし、日本個人は義務の意識に乏しい。最近は勝負などへの執着心にも乏しくなっている。あああ
共感できることの多い内容ですが、気になった点をいくつか残しますね。

内容にはあまり関係ないのですが、まず蘇我氏が渡来人系であることは現在ではあまり支持されていないものと思います。もっとも、蘇我氏が技術ある渡来人を重用していたようなので、先端的な豪族であったとは思います。

それと、鎌足は中臣氏の一部ですが、主流ではなかったと思います。むしろ主流であった中臣金が壬申の乱で大友皇子側についていたため、中臣氏は凋落してしまい、藤原不比等も下の方から一歩ずつ登って行ったということです。その意味でも優秀な人物であったと思います。
貨幣制度を作った人物とも言われているようですし。

どれほど神格化されているかは別にして、彼のような傑出した人物が今の日本政治にもほしいものです。
韓国って中国、モンゴル、日本の万年属国でしょ?
歴史が無い国じゃん
韓国起源=韓国人が自分の国に無くて欲しがっている物
不比等という名前
不比等と名を贈られた以上史上もう現れませんし、それに相応しく日本人の基底意識を不比等前と不比等後に規定する紀元としてしまいました。信長が殺されず海外進出しアジアでスペイン、ポルトガルと競っていたらもう内向きの日本ではなくなっていたかもしれませんし、そうなっていたら克不比等だったでしょう。幕府開闢、明治維新もこれ程とは思えず継続だと思います。それと上記コメントの「法による支配」は、正反対の意味の「法の支配」と思われてしまうので、「律令による支配」でよいのではないでしょうか。
百済って日本に人質を差し出していた、日本の属国ですよね。
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