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書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その3

2011年05月18日

書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その3

 このシリーズの最終回です。

 前回までは、藤原鎌足の子の藤原不比等が、律令制度を実質的に作り上げ、その後の藤原氏の栄華の基盤を作ったところまで書きました。

 律令制度というのは、土地の私有を認めず、すべて天皇のものとし、豪族は冠位や役職によって俸禄を得て、市民は土地を貸し与えられる代わりに租庸調と言われる納税の義務がありました。

 しかし、この制度は冠位や役職を藤原氏が独占したことや、開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど、藤原氏に富が集中する仕組みとなっていきました。

 藤原不比等は720年に死んだのですが、すでに天皇の外戚の地位を獲得していました。さらに、天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血のつながっていない皇子を徹底的に排除して、ますます外戚としての地位を強固なものにして行きました。
 
 そして不比等の4人の息子に、それぞれ別々の藤原家を名乗らせ、役職を独占しようとしました。(各家に役職につけるのは1名ずつと決められていたため、別の家にしたのです)

 その4人の息子は、天然痘で全員いっぺんに死んでしまうのですが(長屋王のたたりとも言われます)、次男の房前(ふささき)の藤原北家が残り、その後の摂政・関白の地位を近世まで独占します。

 唯一の例外が豊臣秀吉ですが、秀吉も藤原家と縁組し藤原秀吉として関白に就いています。

 藤原家(正確には藤原北家)は、平安中期の藤原道長・頼道のころに最盛期を迎えます。道長は3代の天皇の外戚となります。

 歴史の教科書では、藤原家の栄華はこの辺を頂点として衰えていくと書かれています。

 ところが、その後も藤原氏(藤原北家)は、五摂家として名前を変え、天皇家だけでなく、時の有力者とたくみに閨閥を形成して生き残っていくのです。

 五摂家とは近衛・鷹司・九条・二条・一条家のことです。

 五摂家は、摂政・関白として天皇家を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく、天皇の妃(皇后)も独占してきました。つまり藤原氏(五摂家)は、天皇家そのものになったのです。だから現在の歴史家も藤原氏の正体に切り込めないのです。

 五摂家以外から初めて皇后に迎えられたのが、何と今上天皇の美智子皇后なのです。

 余談ですが、江戸時代初期に2代将軍・徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の室として入内していますが、皇后ではありません。ただ和子の生んだ娘が、後水尾天皇が突然退位したあと明正天皇(女帝)として即位しています。
 女帝は結婚できないので子供が出来ません。ここで天皇家のなかの徳川の血を絶やしてしまおうという五摂家の深慮遠謀だったようです。

 鎌倉時代、将軍家である源家の血筋が3代で途絶えてしまった時、将軍に送り込まれたのが藤原北家の九条氏からでした。

 室町時代に入ると、足利将軍家の正室を送り続けた日野家も、藤原北家の流れを引きます。

 江戸時代の徳川将軍家の正室も五摂家から多く出ています。ただ徳川家の方も正室に将軍の世継(男児)が出来ないように画策していたようです。

 そして明治維新で、再び天皇親政が始まると、当然五摂家の力は復活します。

 第二次世界大戦直前の首相であった近衛文麿は、もちろん五摂家筆頭の近衛家当主であり、天皇を輔弼(ほひつ)し、首相候補を天皇に奏上する役目であった(つまり首相を実質的に決める権限があった)元老の西園寺公望も、藤原北家の流れを引く西園寺家でした。

 つまり8世紀はじめに藤原不比等が引いた路線が、その後、形を変えて時の政権の近くで存続し、1200年以上もたった明治時代に再び表舞台に出てきたのです。

 そして、この藤原氏のやり方は、現在の官僚組織をはじめとする日本の仕組みに、深く受け継がれているような気がしてならないのです。
 
 現在、五摂家は主だった活躍をしていないように見えますが、たとえば日本赤十字社の社長は近衛家当主の近衛忠輝氏です。

 3回にわたって、「書き換えられた歴史・藤原氏の正体」を書きましたが、もしお手元に歴史の教科書がありましたら、読み比べて下さい。なんか不自然に見えると思いますよ。

平成23年5月18日

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コメント
藤原不比等のような策士が現代日本にいれば、アメリカの後塵を拝することはないのに。。。
現代日本は人材登用の方法を誤ったようです。衆愚政治マンセー!
 素晴らしい歴史の闇をご教授いただきましてありがとうございました。前の席のものは摂家神道のものでお怒りにならぬよう。真に国体を思えば、戦後政治の決算として摂家神道を葬る必要があったのに巧みにこれを偽装やマスコミを使った子供だましで逃れてまいったのでございましょう。
 そう。NHKの大河ドラマ「平清盛」で藤原摂関家が当時どうであったかが生々しく見て取れた。時の左大臣、悪左府は敵が迫っているのにもかかわらず、書物を大事に抱えていたため、首を矢で射ぬかれてしまい、それが致命傷となり死亡した。
 過去の書物の文言を一字一句挙げて政治をコントロールすることを目指していたのだ。会議は重要になればなるほど決するを躊躇する場面が起こる。そうなると人々は途方に暮れる。その中で悪左府は立ち上がり、古式にのっとればと古典を引用し皆に決断を与える立場にあったのだ。
 こういうような、マインドコントロールを摂家方は今もやめない。神道は好きだが摂家に染まった今の神道が良いとは思えない。
はじめまして。
夜中に興味深く読ませて頂きました。
ここに書いてあることは、何かの文献を参考にしていらっしゃるのでしょうか。

もし参考文献があるようでしたら、お時間がある時に追記などして頂けると嬉しいです。
神話を哲学化しなければ
 しかし純粋性が大事な歴史に策士の考えが混入しているのは問題だ。
藤原氏の遠祖
千田稔著『神奈備 大神 三輪明神』の「大神神社周辺の交通路」に、「平安時代の文学から長谷詣でが人々の憧れであったことが知られる・・・『蜻蛉日記』は奈良の春日神社に詣でた後長谷寺に向かうくだりがある・・・私が不思議に思うのは大神神社を拝していないことである。・・・大神神社についてはその名すら書かれていない。椿市からは目の前に秀麗な山容をした三輪山が視野に入っているはずだがそれすら記録に留めていない。・・・とすれば、長谷詣でにおいて三輪山の風景の印象を記さないのは何か特別の意味があるのだろうか。『更級日記』もまた三輪山に触れていない。『源氏物語』も三輪山の風景には関心を寄せていない。平安貴族の長谷詣での影に大神神社は文芸の対象から遠ざかっている感が強い。なぜ『蜻蛉日記』や『更級日記』あるいは『源氏物語』の長谷詣での叙述にも三輪山が描かれていないのかということは興味深い謎が隠されているかもしれないという問題提起をするだけで留めておきたい」と書かれている。筆者山本貴美子氏はこれについて、平安時代の代表的貴族の藤原氏は藤原鎌足の子孫であり、鎌足こそ中大兄皇子と共に大化の改新を成し遂げた方であり、その遠祖は「飛騨王朝の大幹部の天児屋命(アメノコヤネ命)なのです。天ツ神の子孫の藤原氏は新羅神崇拝教、後に出雲教の下劣で残虐非道の歴史をよく知っており、三輪山を忌々しく、苦々しく思い嫌っていたに違いないのです。皇室を中心に平安貴族達は三輪山を無視していた。と著書「暴かれた古代史・二千年の涙」の中で書いておられます。藤原氏の始祖である天児屋命は飛騨皇統系の出なのです。年一回秋に奈良の春日大社で藤原氏の末裔の方々が集まり「籐裔会」が開催されますが、春日大社の祭神も天児屋命と建御雷神の飛騨王朝の大幹部です。藤原鎌足と中大兄皇子の勇気ある行動がなかったら、新羅人蘇我氏に皇位さえ奪われ、天皇の御霊代の「天照大神の八咫鏡」すら取られていた可能性があり、日本そのものが新羅人により乗っ取られていた可能性があったのです。蘇我氏とは大国主が新羅の「ソ氏」という普通の家の娘に産ませた子の少彦名=イソタケル=五十猛が祖であり、新羅人の「ソ氏」なのです。中臣氏、物部氏、忌部氏など全て飛騨スメラミコト系の人が遠祖なのです。
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