闇株新聞 the book


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メルマガ「闇株新聞 プレミアム」のお知らせ

2015年11月01日

メルマガ「闇株新聞 プレミアム」のお知らせ


 11月2日(月曜日)の夕方に、予定通り配信します。

 予定内容です。


メインテーマ 1  もう「ひとまわり」しそうな世界の金融緩和・量的緩和サイクル  その2

 先週の続きですが、10月30日の日銀政策決定会合では追加緩和が見送られました。また10月28日にFOMCでは利上げが見送られましたが、どちらも市場の予想通りで金融市場の混乱もありませんでした。

 今週は引き続き、世界の金融緩和・量的緩和がもう「ひとまわり」する可能性と、その世界経済と金融市場に与える影響を考えますが、単に「追加緩和する」とか「FRBが利上げする」という結果だけを予想しても不十分なので(というよりほとんど意味がありません)、もっと多方面からいろいろと考えてみます。

 それから最近本誌が主張している金融政策より世界の政治・外交が重要との考えですが、「金融政策だけに頼るのではなく、国際的な政治・外交も含めた総合的政策で対処すべき」の方が適切な表現かもしれません。

 これを実践しているのが中国だけ(ロシアもそうかもしれませんが)というのでは日本にとって大変に問題なので、この辺りも取り上げます。


メンテテーマ  2  株式市場における、次の「勝ち組」、次の「負け組」 その4

 ようやく7~9月決算発表が出始めましたので、今週は決算数字を見てシャープ、ソニー、野村HD、OLC(オリエンタルランド)、不祥事を起こした企業からフォルクスワーゲン(東芝と旭化成は来週です)などを取り上げます。

 リクエストも質問コーナーにお寄せください。必ず取り上げさせていただきます。


お勧め「書籍」「映画」「絵画」コーナー 

 たぶん「書籍」です。


今週の相場観

 今週の株式・為替・国債市場について考えます。
 
質問コーナー

 できるだけ全部のご質問にお答えするつもりです。本日(11月1日)深夜まで受け付けていますので、どしどしお寄せください。


付録  「中国人の尊大さはどこから来たのか? その中国人とどう対決していくのか? を歴史から考える」  第4回(全5回)

 ますます傍若無人になる中国および中国人との対決方法を模索するシリーズです。2014年7~11月に15回にわたって連載したシリーズに大幅に加筆・修正してお届けします。

 今週は、五代十国時代、宋(北宋と南宋)、モンゴル帝国と元です。来週は明、清、中華人民共和国を取り上げて終了となります。


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コメント
『闇株新聞の闇は深いですね』
一、
「高麗った・新羅けた・百済ない」とのジョークを述べた次第であるが、世の中は広いものである。幾たびとなく訪朝や訪中を繰り返えしていたのが、かの有名な画伯で
ある平山郁夫氏である。
平山氏は、昭和四十三年には「卑弥呼壙壁幻想」などという作品を描いている。
その「卑弥呼」の作品が発表され、四年後の昭和四十七年に「高松塚古墳」の極彩色壁画が発見されている。この高松塚の極彩色壁画は、北朝鮮の平壌周
辺に散見される古墳群中の壁画と似ていることから、我が国でも朝・韓の歴史学界の見解に倣って「高句麗」の壁画であると断定している。

高松塚やピョンヤン周辺の古墳群に価値があり、且つ、それらが正真正銘な高句麗文化の遺産であるのなら、誰も何ら異議を差し挟む余地はない。ところが、これが大間違いなのである。
二、
壁外の住人は、今日に根付き定着している「古代北東アジア史」の或るページが、国家権力を発動し、朝・韓現地の学者たちを恫喝しゴリ押しして創り上げた一大「虚構」であることを、これまで四十年近く叫び警鐘を鳴らし続けてきた。平山氏が、日本古代文化は高句麗文化の影響を受けたと言っているが、この発言そのものも又、嘗ての古い時代の我が国アカデミストと全く同じ過ちを犯している。 高松塚古墳と現・北韓の古墳群との間に、共通の類似する文化があるとするならば、それは朝・韓・日の歴史学者の見解でもある「高句麗文化」ではなく、「百済文化」なのである。現に、仏像にしても例外はあるが、日本の仏教美術の粋と言われるものは、一般に「百済仏」が原形であると言われている。平山氏が言うように、飛鳥寺に「飛鳥大仏」を造立する際に、高句麗から我が国の推古天皇に大枚の黄金が送られたという史実を否定はしない。しかし、『書記』の記述そのものを鵜呑みにしてかかることは如何と思う。
『書記』の原形もこれ又、『百済本紀』が元になっているという事実から勘案すると、上記の史実とされていることを頭から信用してかかることは、危険でさえある。『書記』には当然のことながら、百済建国から滅亡に至るまでの
残像が投影されている筈であるが故なり。
以下、現在の北韓の古墳群全てを、高句麗の文化財であると見なすことは百%不可能である。その理由について少しく述べてみよう。
三、
古代東アジア、就中、北東アジア史に関する文献は、残念ながら、十世紀以前に遡ると今の朝鮮には見出されない。従って、いきおい支那大陸ということになる。中国には幾多の異邦異民族に関する文献史料が残されており、それらの中に、言う所の高句麗や百済・新羅に関する伝承が数多く存在する。それらの伝承・伝記と雖も、清朝期下の碩学・曽詳(そ しょう)氏の言によれば、その多くは想像の域を出づるものではなく、又、政治的要因と絡み合って抹消されたものも多きに至る…と言う。その発言から勘案すれば、頭から鵜呑みにして取り組むことは危険が生じてくる。 しかし、だからといって完全に無視することもできない。そのような文献であっても、他に比すべき文献が存在しない以上、一応は懸念しながらも参考とすべきは参考とし、その中から幾ばくかの真実味を嗅ぎ出しさえすれば、後は考古学上の発掘発見物を、どのように位置付け、どのように語り出すかにかかっていよう。
高松塚古墳と北鮮の古墳群に類似性ありと見るならば、文献史学上の推定は「百済文化」と位置付けることができる。その理由は、高句麗も百済も、共に
「狛族(こまぞく)」すなわち「濊貊(わいはく)」の「貊」であり、これら は共に「コマ族」と言い、この「コマ」族たちが内紛を起こし、西に奔ったものが、いわゆる「百残」あるいは「伯済」と言い、後に至って「百済」と名乗ることとなるのである。
百人の残党を従えて「韓」の地に入った百済に「馬韓王」の思いやりで、その東界の地百里を割いて与えたという。「コマ族」が内紛を起こし、西に奔り最初に拠った所が、今日の「遼寧省」西部の「大凌河」流域下游一帯の地
である。
しかし、時代が降って北の「鮮卑族」が南下し、又、その背後には「曹魏」が台頭し、かててくわえて同族である「高句麗」が遼東方面に侵攻を開始し、合わせて西、遼西方面を睥睨し始めた。ここに於いて「百済」は東遷のやむなきに至り、海路遼東湾(古の楽浪海)を越えて南の方、「韓」の地に入ることになる。
ここで「韓」の地というと、今日では即座に今の「韓国」方面と受けとめが
ちであるが、おっとどっこい、そうはならない。言う所の「韓」、すなわち、
古の「辰国」とは、今の遼寧省「海城市」以南一帯の広大な区域を指す。前論
でも述べた如く、そこは、「楽浪朝鮮」の南界である。現在においても、「古朝鮮」に関する遺趾や遺品は数多く発見されているが、それらを中・朝・韓・日の学者たちは、歴史のページにどのように位置付けて語れば良いのか全く分からぬままである。
四、
このように歴史を分からなくしてしまったのは、嘗ての日本の「御用学者」や「軍部」である。一つの例証として、嘗て遼寧省「熊(ゆう)岳城」近辺に在った「百済」の始祖「尉仇台(いきゅうたい)」の碑を、日本軍は現・韓国方面に持ち去った…という事実がある。
今、ここで「百済」の始祖を「尉仇台(いきゅうたい)」と言ったが、それはかなり怪しい…と言う御仁も居られよう。いわゆる『三国史記』中に拠ると、その始祖は「解温祚(かいおんそ)」となっている筈と。しかし、中国二十五
史中の「百済伝」を見る限り、「百済」の始祖を「解温祚(かいおんそ)」などとは一言も出てこないのである。これは至極当然のことなのである。

『三国史記』が編纂されたのは、遙か後世の「高麗」の時代に入ってからで
あり、その段階で「高句麗」と種を同じくする故に、その始祖を遡って「東夫余王」の姓、すなわち「解」を採って詐称したものであろう。中国の文献、就中『新唐書』中においては、【夫余の尉仇台、遼東太守・公孫淵の娘をめとり、百済の始祖となり、強大になった】旨の記述がある。又、他の文献中においても「尉仇台」の名は出てくるが、「温祚」の温の字も見当たらない。
同時代成立の文献を優先させるということに重きを置けば、中国側の記述が正当性を帯びて来よう。しかも、この「尉仇台」は公孫氏の勢力圏内の「故帯方の地」に拠ったのである。
一般に、「帯方郡」とは、「楽浪郡南部都尉治」を切り放し、西暦二百八年
(二百七年とするものもあり、しかる時は、公孫度に当たる)頃、遼東の覇者「公孫康」(或いはその父の「度」の時代とも言われる)が、設置した私設の「郡県」であり、漢帝国の直轄地ではない。
「楽浪郡」そのものが、今日の韓半島方面に設けられたものではない故に、その南部と言えば、そこは当然のことながら、今日の「海城市」以南の遼東半島方面になる。
ちなみに、中国歴史地図中を調べてゆくと、この「帯方郡」最後の時期は、奇しくも「百済」強勢期に入る「後燕」の世祖「成武帝」の建興十年、すなわち西暦三百九十五年であり、その治所は「熊岳」である。
何故にこの時代が、「帯方郡」最後の時期となったのか、これも簡単、「帯方郡」は「百済」の併合する所となり終焉を告げることになる。又、その治所が「熊岳城」に置かれたということは何を意味するのか。此処がいわゆる「百
済」の都した「熊津城」だったのである。今日現在語られている如く、韓国の「忠清北道」や北朝鮮の「黄海道」方面に存在したものではない。
「梁」の武帝の天監元年すなわち五百二年、「百済」は東遷している。その
原因は先に述べた軍事情勢による。この五百二年は又、対外的に国号を「斯廬
(しろ」から「新羅(しら)」へと改称した年でもあった。
更に、追って「百済」の所在地について言うならば、『史記正義括地志』に、「百済の西南・渤海中…」云々なる語が見られ、又、「拠って遼西・晋平二郡を置き、自らも百済郡を置く…」と記録されており、更に、『通典(つてん)』中を見ると、「百済、又、拠って遼西・晋平二郡を置く、今の柳城・北平の間なり…」とある。
又、更に追ってみよう。『魏書巻百』中に拠ると、「百済」第二十一代「蓋鹵(がいろ)王・夫余慶(ふよ けい)は西暦四百七十一年、すなわち東遷前になるが、「北魏」第六代高祖「孝文帝」の延興二年に既に「北魏」の領有する所となった「遼西」方面の返還を要請している事実がある。
五世紀も後半に至って、「百済」と言われた国が、自らの西方界域の返還を願っているということは、この国が何処に存在したものかを雄弁に物語っていよう。
前に、「百済」は遼西・晋平二郡を置く…と書いたが、その所在地は『通典』中に言う如く、「柳城(古の龍城)と北平の間を言う…」と。この北平とは古の漢帝国時代の北平郡を言う。これは後「清朝」期に入り、「永平府廬龍(ルーロン)県」となった今日の河北北部の、「廬龍県」である。
五、
今日、一般に我が国の学者も、この「百済」の郡県については黙しているが、何故か。それは、偽造された史説では辻褄が合わなくなるからである。
この五世紀初頭から末に至るまで、「百済」の強勢期であり、「高句麗」は
百数十もの城塞を片っ端から攻略され、その都である「平壌城」すら奪われて
いる。これでも未だ、「百済」が現・韓国方面と言い張る御仁が居るのならば、
その御仁も又、古い時代の「皇国史観」を鵜呑みにして「北東アジア史」を眺
めている「骨董博物館」行きが最もふさわしいアナクロ人間であると確信する。

日本のある「仏師」の曰く、【我が国の仏教美術の真髄とも言える端正且つ
尊厳性に充ちた諸仏像は、まさしく「百済仏」の影響と言えよう。しかし、そ
の源流であるとされる筈の「韓国仏」とは極めて似て非なる物である…と。た
またま、満州方面の「遼河」流域辺から発掘されたという「満州仏」を見させ
てもらったが、その時、愕然とした…】と。それは、当たり前のことである。
何度も言ってきたように、「百済」の国とは、今の韓国方面ではなく、「南満」
一帯から北朝鮮の「大同江」流域にかけて存在したが故に、である。そのよう
に解釈するならば、「百済」が「倭」と結託し、「高句麗」に当たったという
史実も、すなわち今の「韓国」方面に「倭」と称された国が存在していたが故
に、両者は簡単に結びつくことが可能だったのであろうと納得できるのである。

然して、その時の返礼として「百済王」から「倭王」に下賜(かし)された
物が、かの有名な「七支刀(ななつさやのたち)」であったと言える。この時
点では「百済王」の方がランクが上であり、「倭」はポリス的な存在の集合に
過ぎない。後世、「新羅」が発展し南下を開始した六世紀後に、「倭」は日本
列島内に移住を開始し、「百済」が西暦六六五年に滅亡するに至り、その豪族
たちも又、日本列島に入植するに至る。

ちなみに、我が国の戦国武将たちの多くが、大内氏や、古くは坂上田村麿に
至るまで、殆どが「百済」系豪族の末裔である。なお、甲斐源氏は、新羅三郎
義光の裔(すえ)と、「新羅」出身であることを名乗ったのである。

六、
さて冗漫気味になったが、拙者・六無斎は、以前、故・松本清張先生に毒舌
を吐いたことがある。すなわち、作家として優秀なることは認めるに吝かでは
ないが、芸術家や作家の方々が歴史を語ると、トンデモナイ方向へと飛躍して
しまいます!と、申し上げたら、『謎の源流』以外、歴史的なものには首を突
っ込まなくなった。

NHKの3チャンネルで、同じく故人となられた東京大学名誉教授・江上波
夫先生と松本清張氏との対談が放映された折、松本清張氏から江上先生への質
問として出た言葉が、【先生、「衛瞞朝鮮」とは、今の朝鮮半島北西部方面で
はなく、現在の中国東北部の「遼河」流域一帯に存在したという発言を受けま
したが、その実態は如何なものでしょうか…】であった。その時、江上先生は
言葉を濁し、【いや、まあ、その様な見方もあるようですね!】で終わったと
記憶している。

この松本清張氏の質問に、江上先生が言葉を濁した理由は、我・六無斎には
聞かずとも分かっている次第。江上氏は、白鳥庫吉や鳥居龍蔵の弟子であり、
旧・帝国大学時代に師に従って韓半島入りし、師匠たちの改竄行為を手伝わさ
れた一人であったからである。

又、更なる救いがたい御仁が居る。名を敢えて挙げよう。黒岩重吾氏である。
彼は既に虚構改竄史の虜となり、それを前提としてやたらに「卑弥呼」につい
ての推理本を出していたが、氏にも六無斎は史料を差し上げているのに、馬の
耳に何とやら、般若・浄土はた又、華厳経を唱えてみても残念ながら分からず
仕舞いでお亡くなりになられた。

七、
高松塚や北鮮の古墳群の殆どが、「高句麗」ではなく、「百済」文化である
と理解されるのは、百年後のことと相成るのか、余り期待はかけられないと予
想している。

官にいるアカデミストに於いてをや、野に居て名声を上げるために敢えて埋
め戻し作業を秘かに行った御仁もつい最近に存在している。しかし、戦前、国
家権力のもとになされた大規模な「犯罪行為」を検証し糾弾しなければ、歴史
を正しく語ることは全く不可能である。

ことの善悪は時代の流れが、やがて解明するであろうと一縷の望みを懸ける
が、六無斎には何時までも被害者面をしてユサブリをかけ、物や金をせびる国
は余り好きにはなれないし、又、何時までも加害者として卑屈になっている国
も容認できない。既に、もはや戦後70年になろうとしている。

又、歴史教育を監督する「文部省」の名称が「文部科学省」に変わっている。
「科学」が付くと、耳に心地よく聞こえるけれども、その集団のお役人たちの
殆どが「脳硬化症」を患っている様である。「脳梗塞とか脳貧血」は治るが、
「脳硬化症」は完治しないと言われている。いずれにしても誤った歴史解釈を
完治するには、気が遠くなる程の時間が掛かるのであろう。

八、
蛇足ながら、最後に一言付け加えて筆を措くこととしたい。「卑弥呼」とは、今日の日本人ではなく、多分に現・韓国方面に雑居していたポリスの「女酋」を指している。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは日本人だけであり、漢人は「ピミフ」と発音する。どう考えても、日本人ではあり得ないと確信する。
 


    
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