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謎だらけの日本の誕生  その1

2011年06月13日

謎だらけの日本の誕生  その1

 本誌で何度か書いているのですが、日本は「国家としての誕生過程」がよくわかっていません。つまり、日本はいつ、どこから来た誰によって支配されて成立したのかがはっきりしていない世界でも希有な国なのです。

 だから今日でも、誰に何の権限があるのか、誰が最終責任を負っているのかが一向にはっきりしない国なのです。

 「国家としての誕生過程」がはっきりしない理由の一つは、720年に編纂された「日本書記」が、1300年たった今でもろくに検証もされないで受け入れられているからです。

 この「日本書記」と、701年に編纂されて現在の官僚制度の原型を規定した「大宝律令」は、ともに藤原不比等の意向が強く反映されているのですが、この辺は、5月16付け 「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 1 」、5月17日付け「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 2」、5月18日付け「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 3」に書いてありますので読んで下さい。

 藤原不比等は「日本書記」編纂に際し、それまでの記録(特に蘇我氏に関わるもの)を全て破棄させ、古代に遡って歴史を自由に書き換えてしまった可能性があります。もちろん、その後の藤原家の支配をやりやすくするためなのですが、「日本書記」は天皇家の歴史とも言えるため、現代に至るまで十分な検証は行われず、従って日本の「国家としての誕生過程」が不明なままなのです。

そうは言っても、現在の日本の閉塞感を少しでも改善するためにも、日本国家の成立過程は解明しなければなりません。
 世界の金融相場も目を離せない局面に来ているのですが、合間を見つけて少しずつ書いて行こうと思います。

 4世紀ころに日本を最初に統一したと思われる「ヤマト朝廷」には、蘇我氏、物部氏、大伴氏をはじめとする朝鮮半島からの外来人が深くかかわっていたことは間違いありません。

 それでは、「ヤマト朝廷」は、外来人が日本を征服して建てた国家なのでしょうか?

 外来人とは、おもに朝鮮半島から渡ってきた人のことなのですが、当時の朝鮮半島は楽浪郡や帯方群を通じて中国(220年までは漢、その後265年まで魏)の影響下にありました。

 ところが、日本語は中国語とも韓国語とも、似ても似つきません。

 と言うことは、日本人は(その起源は分からないのですが)ずっと日本に住み、日本語を話しており、そこへ外来人が入ってきて、日本の言葉を覚えて同化していったことになります。すると、外来人はあくまでも「ヤマト朝廷」に協力していた「脇役」にすぎないのでしょうか?

 確かに、当時から使われている漢字は中国のもので、日本書記なども漢文で書かれています。しかし、これはあくまでも日本語に漢字を当てはめたもので、意味はともかく発音は中国のものと似ても似つかないのです。

 「卑弥呼」などは、目的は分かりませんが日本に来ていた朝鮮半島からの人々が、日本人から聞いた発音を苦労して漢字に当てはめたものです。今となれば、そもそも「ヒミコ」という発音だったのかも疑問です。(松本清張氏は「ヒムカ」のはずだと言っています)

 言語と文字は、一緒に出来て発達していくものだと思いがちなのですが、普通は先に言語があり、後から適当な文字が割り振られていくことが圧倒的に多いようです。だから日本語に後から漢字があてはめられたことは何の不思議もないのです。

 余談ですが、世界の文字の大半は紀元前1200年ころから、今の中東のレバノンのあたりを本拠地にして地中海で活躍していたフェニキア人のフェニキア文字から派生していったものです。
 このフェニキア文字をもとに、紀元前9世紀ころに古代ギリシャ人がギリシャ文字を作り出し、ここから古代ローマで使われたラテン文字ができ、そこから英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語等の文字が派生していったのです。

 だから、ギリシャは全てのヨーロッパ文化の起源なのです。だから欧州主要国は多少財政赤字が多いからと言って決してギリシャを見捨てないのかもしれません。

 話を日本語に戻しますが、日本人は中国語も韓国語も話していないところをみると、国家としての日本は、もともと日本に住んでいた日本人によって建てられたことになりそうなのですが、だとするとどうしてもつじつまが合わないことが多いのです。

 続きます。

平成23年6月13日

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コメント
古代日本史
いつもたのしく読ませてもらっております。古代日本史については私も関心を持っており、御説を興味深く読んでおります。

古代においては近代におけるような国家や国境意識がうすかったのではないかと思います。朝鮮半島とは国境意識なく行き来してたものではと思います。

もうひとつ、いつも心にかかってることとして古代の日本の地名や人の名前に現代の日本語と比べ日本語離れした発音がおおくあり、そのあたりにも古代日本史をとく鍵があるのではないかと考えます。
(財)飛騨福来心理学研究所、故山本健造博士著「明らかにされた神武以前」を紹介します。山本氏が若かりし頃、飛騨大野郡丹生川村籏鉾分校に教師として赴任されていた時、分校の用務員をされていた若田翁から聞かされて筆記し、「いずれ世に公表出来る日が来たら、公表してくれ!」と託された「飛騨の口碑」の一文を抜粋して紹介します。
抜粋・・・日本で最初に海から頭を出した地が飛騨であり、日本の最初の生命は飛騨に現れた。飛騨にいた猿のような猿でない者が進化して我らの先祖になってきたので、渡来人はずっと後に少し来ただけである。太陽の光を水に映して、これを囲んで村人達が心を鎮めて清らかな心に帰り、大自然や先祖に感謝の祈りを捧げたのを日抱きというのだ。日抱きが飛騨の名になったのだ。その日抱きの地が、飛騨の山奥の乗鞍岳のふもとの神社になった。今でも日抱きの宮という神社が十八も残っている。この日抱きの御魂鎮めを行じていた先祖の中に大淡命(おおあわのみこと)や淡命(あわみこと)、天照大神(ヒルメムチ)などの大神通力者が出られて日本の西域に外国の人が渡来し侵略していて、このまま放っておけば遠からずこの島の民族は滅ぼされ外国の植民地になってしまう危険のあることを予言され、外敵から身を守る為、日本海、太平洋の海岸の要所を守るべく、大事な分家のヤマノフモトズミ、ヤマノシタズミ一族を遣わされたのである。その後、邇邇芸命が飛騨の一族を従えて西域鎮圧の為民族の大移動が行われた。これが天孫降臨といわれるものである。その中心となられた天照大神の先祖は上方と言われ、後には上御一人とも言われて「古事記」や「日本書紀」に出て来る皇統系である。この家は総本家であるから姓はなく、天皇家である。飛騨の山奥に残った上方は後に私の代まで続いて来た。・・・抜粋終わり
 これが「飛騨の口碑」の大体の内容ですが、それぞれの具体的秘伝は莫大な文章にのぼり、400字詰め原稿用紙で枕程の高さになり、現在も自宅に保管され、「鞍ヶ根風土記」と銘打たれているとのことです。

これが日本国が出来た時の様子です。「とても信じられんだろうが・・・」と言って口述が始まったとあります。

日本は飛騨から始まり、九州邪馬臺国(ヤマトコク)、奈良橿原大和、長髄彦・安日彦兄弟の津軽大和国=アラハバキ王国の3つの大和国から成っていました。
天孫を各地に降臨させる
飛騨乗鞍岳の麓に発生した原日本人について続けます。
尚、山本健造著「明らかにされた神武以前」からの引用、抜粋になります。
乗鞍の麓に出られた大淡上方様は大変な遠方でも未来でも見通して確実に当たる人で、将来に備えて飛騨に組織網を作り、我が子を飛騨の要所に配置され連絡を密にされて団結し外敵に備えられた。
そして日本各地へ降りて行き数百年に渡って総本家の皇統系に忠誠を尽くした。
長男の直系の山麓住日高日抱奇力命(ヤマノフモトズミヒダカヒダキクシキチカラノミコト)や次男の山下住水分奇力命(ヤマシタスミミクマリクシキチカラノミコト)は飛騨の要所を固め、末っ子の直系命(マッスグノミコト)が直系を継がれた。この直系の15代目に淡上方様が出られ、若狭湾・琵琶湖・庄川、神通川河口付近・新潟・東京湾・秋田・山形・瀬戸内・近畿・伊勢湾などに分家の者を配して、万一には直ちに飛騨へ連絡するように備えた。
その内の一人が山本高山土公命で伊勢鈴鹿に定住。山本一族は分かれて琵琶湖山本山の麓に住み、その分かれが若狭湾の山本に行き織田の地に住んだ。
山本一族と共に山下住一族が鈴鹿に下り、後にこれが分かれて伊豆と横浜へ、そして海路を伊予国大三島へ行った。この大三島の山下住一族が後、大山祇神社に祭祀され、伊豆に行った子孫も後世伊豆の三島に祭祀された。(飛騨の口碑による)
さて、このように初代の子孫天孫族が各地に展開し防護体制もほぼ出来上がり35代天照大神の飛騨政権の時代が来ます。
この頃、九州には3つの外国勢が大挙上陸し古来よりの住民はとても酷い目に合っていました。
それでヒルメムチ=天照大神は飛騨の人を天の安川原に集め皆に諮りました。そして①日本を一つにまとめる②早々に筑紫を平定する③飛騨は降雪が多くなり動きが取りにくくなったので大和(奈良)に都を遷す。事が決定されました。
奈良に決定したのは先に近畿に展開していた山本高山土公命の子孫が会議に加わっていた為に奈良橿原の地が選ばれました。
その前にヒルメムチは出雲が飛騨の次に大きな政権だったので政略結婚の縁組で和睦する方法をとりました。弟スサノオ命は出雲に婿に行き、スサノオの後継者大国主命の所へ長女多紀理姫を嫁にやり、4男熊野久須毘命が婿に行き、いずれ市寸島姫と多岐都姫も嫁にやる約束をしました。
ところが出雲に行った熊野久須毘命が変死し、多紀理姫も大国主が腹違いの妹の須勢理姫と一緒になり、多紀理姫との長男の阿遅志貴高日子命(加茂命)を後とりにもしなかったので、下照姫と阿遅志貴高日子命を残したまま飛騨に逃げ帰りました。大国主は父素戔嗚命の諭しも聞かず二人で駆け落ちしてしまいました。これは国と国の約束を反故にする重大な謀反ですから、すぐさま飛騨から談判に行きました。しかし、天穂日命が行っても、若彦が行っても大国主に会えませんでした。
大国主は11年間も新羅に行ったまま帰らず、新羅のソ氏の娘などに181人もの新羅人の子供を孕ませていたのです。
この件で、飛騨は命だけは助けましたが、大国主と事代主親子は飛騨によって国を飛騨に返還し、飛騨の匠が建てた幽閉所に幽閉されました。出雲は元々、先程の山下住水分命の子孫が開拓して作った国であり、飛騨へ返させたのです。「古事記」では譲ったとなっていますが奉還と出雲大社由緒に書いてあります。
これで出雲の件が一段落し天照大神の孫の饒速日命が会議の決定通り奈良橿原大和の建設に向け大挙して向かいました。その後弟の邇邇芸命が大軍勢を率いて九州平定の為高千穂へ遠征しました。(天孫降臨)中を省略しますが、邇邇芸命は九州で亡くなりましたが、その孫のサヌ命=神武天皇が無事九州平定なって橿原入りされて初代日本国天皇として奈良橿原飛騨大和朝廷の本格的建設をされることになりました。
しかし、先程大国主が新羅に行きソ氏の娘に子供を孕ませたと書きましたが、その子が青年になって父が幽閉されているとも知らずに出雲にあいに来ます。そして父が幽閉されているのを見て、後に統治していた天穂日命を惨殺し出雲政権を乗っ取るのです。そうです、この子が少彦名=五十猛なのです。
そしてやがて蘇我氏が天皇を凌ぐ権力を持ち大和朝廷を支配することになるのです。
今回はここまででまた次回に回します。
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