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謎だらけの日本の誕生  その3

2011年06月17日

謎だらけの日本の誕生  その3

 266年に邪馬台国が晋(西晋)に使いを出したという記述を最後に、約150年間中国の歴史書から倭国が姿を消します。前回は、その空白時代以前の日本について書きました。

 そして、この約150年の空白時代に以下のことがあったと推測します。

 まず空白時代には、316年に晋(西晋)が匈奴などの北方民族に滅ぼされ、漢民族が南部に逃げて中国全体が大混乱になったため、倭国に関わっている余裕がなかったからです。
 ところが、大混乱に陥ったのは中国だけでなく、楽浪郡などを通じて中国の影響下にあった朝鮮半島も大混乱になったはずです。

 多分、混乱の中で朝鮮半島を捨てて日本に大挙して流れてきた一団があったのでしょう。それまでも朝鮮半島から日本(九州北部)に移り住んだ人々は多かったはずですが、今度は政権の中枢にいたかなり有力な人々が、勢力争いに負けたなどの理由で流れてきたのです。

 ここで今までの平和的な交流が終わり、日本で政治的主導権を握ろうとする一団が現れたのです。つまりここで日本は「征服され」出来たのが「ヤマト朝廷」なのです。

 そう思う一番の理由は、420年に中国南部を支配しただけの宋が建国(960年から1279年まで続いた宋とは別の国です)されたのですが、その翌年に「倭王讃」が待っていたかのように朝貢し、しかも倭王として認めてもらうよう働き掛け(と言うより懇願)しているのです。

 空白時代以前の朝貢に比べて、はるかに切迫している様子が見えるのです。それまでは朝貢と言っても、大半は朝鮮半島の楽浪郡等まで行くだけで、後は現地の役人に中国まで取り次ぎに行ってもらっていたのですが、今回はわざわざ中国の南半分しか支配していない宋に直接使いを出して朝貢しているのです。

 そして、「倭王讃」のあと「珍・済・興・武」の「倭の五王」が約一世紀にわたり朝貢し続け、それぞれの王が倭王として認めてもらうように懇願しているのです。つまり征服した日本を支配する「お墨付き」が必要だったのです。

 讃は応神・仁徳・履中の各天皇のうちの誰か、珍は仁徳・反正天皇のどちらか、済は充恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とされており、みんな天皇なのです。

 これらの天皇で一番即位が早いのが15代・応神(おうじん)天皇なのですが、この応神天皇は実在しない可能性があり、多分、次の16代・仁徳(にんとく)天皇が征服王朝である「ヤマト朝廷」の祖なのです。

 それまでの天皇は、実在する最初の天皇と言われる第10代・崇神(すじん)天皇から何代は、多分ヤマト地方の豪族だったのだと思います。三輪王朝とも言います。

 注目すべきは14代・仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后ですが、どちらも実在の可能性がありません。しかし「日本書記」では夫の仲哀天皇が急死した後、お腹に子供(後の応神天皇)がいるまま朝鮮半島へ出兵し新羅を攻めて屈服させ、高句麗・百済も朝貢させた、という記述があります。

 これは天皇の系図を無理に繋ぐためのフィクションです。

 後年、藤原不比等が実質編纂した「日本書記」の記述だけでは、この征服王朝が朝鮮半島のどこから来たかは不明なのですが、私は新羅だと思っています。(藤原氏は百済の可能性が強い。5月17日付け「書き換えられた歴史・藤原氏の正体 その2」を御参照下さい。)

 さらにご丁寧に武内宿禰(すくね)なる家来も出てきます。宿禰はヤマト朝廷を支える中央豪族の平群・紀・葛城・蘇我各氏すべての祖先だとされていますが、もちろんそんなバカなことはなく、宿禰も実在しません。

 ここで、なぜ征服王朝が近畿のヤマトの地を選んだのでしょうか?

 私は軍事的な理由だと思っています。つまりヤマトは周囲を山に囲まれ、一方しか海に面しておらず、しかも内海であるため天然の要塞なのです。
征服王朝は、九州北部にあった日本の旧勢力を恐れたのではなく、朝鮮半島や中国からの攻撃を恐れていたのです。

 ここで、天皇家を中心に外来人の豪族が支える征服王朝の「ヤマト朝廷」が出来あがったのです。そして古墳時代が始まります。

 邪馬台国は少なくとも266年までは九州北部で存続していました。
そして倭王讃が宋に朝貢するのが421年ですので、ヤマト朝廷の成立時期には100年以上の幅があることになります。逆い言えば、100年以上かけて比較的ゆっくりと征服王朝が成立して行ったのでしょう。

 纏向(まきむく)遺跡や箸墓(はしはか)古墳は、この成立過程の中でヤマト地方につくられたもので、邪馬台国とは関係がありません。多分これらの時代測定が50年ほど古すぎるので、誤解が生じるのだと思います。

 しかし、ヤマト朝廷の天皇家も一旦途切れたようで、26代・継体天皇が越前から即位します。応神天皇の血を引くと言われていますが、多分全くの他人でしょう。しかし天皇家を支えた豪族は変わらず、王朝の交代と言うほどではありません。

 そして間もなく蘇我氏が実質天皇家を乗っ取り、「乙巳(いっし)の変」を経て藤原氏が実質天皇家を乗っ取り、現在に至っているのです。

 以上が、教科書に決して載らないヤマト朝廷=征服王朝説です、もちろん私の個人的推測が中心なのですが、大きくは外れていないと思います。

平成23年6月17日

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コメント
天皇家
皇室は蘇我氏と藤原氏、二度も乗っ取られたのですね。
皇室は乗っ取られるのが伝統なのでしょうか。
まず、朝鮮半島から朝廷の祖先がやってきた、という件ですが、これは江上波夫さんの騎馬民族制服王朝説によるもので、ごく普遍的に語られていることです。
この説にはおかしい点があります。
ブログに書かれている藤原氏=大陸渡来、皇室=大陸渡来だとします。
当時、馬を使って移動していることが一般的だった大陸

これに対して、古事記・日本書紀の中には馬に乗って活躍する英雄が一人もいないです。
なぜでしょうか?
むしろ、船で移動した、という記述が多いです。
このことから、南洋(東南アジアか台湾あたりか?)の方から日本人は渡ってきた、という説が最近活発です。
しかも、古事記・日本書紀の最初の国づくりのところで、佐渡ヶ島や本州のことが書かれています。
当時、本州は完全に大和朝廷の支配下にないのに、どうやって島であることがわかっていたのでしょうか?

もう一点、神宮皇后については、たしかに存在を証明するものはありません。
しかしながら、かつて朝鮮半島の南に任那があり、かつ日本軍が攻めてきたことが石碑として残っています。
一時期偽造と疑われましたが、その疑いは晴れています。
当然ながら、妊娠期間を延ばして朝鮮出兵した、などというのは嘘でしょうし、私も皇后自ら出兵したとは思えません。
だからといって、朝鮮出兵までが嘘である、というのは誤りだと思います。


確かに、戦後教育だけを受けていると、そういう発想になりがちです。
そろそろ日本人は戦後の誤った日本史観を改めるべきです。

古事記・日本書紀が信頼出来ないなら、王朝がコロコロ変わる中国や朝鮮の歴史書などはもっと信頼できません。
王朝が変われば、前の王朝のことは否定しがちですからね
日本の始まりは飛騨である「飛騨の口碑」
何億年も前に日本が海から顔を出しました。4億8千年前のミジンコの化石が高山市奥飛騨温泉郷上宝町で発見され、昭和38年には、高山市丹生川町根方岩陰遺跡で縄文草創期約1万年前の根方人骨が発見されています。日本原人が何万年も前に飛騨で発生しました。その地が乗鞍岳の麓の高山市丹生川町でした。「飛騨の口碑」としてこの地の旧家に門外不出の秘伝として伝わっていました。そしてその日本原人の中に、大淡上方様と言う方が出られ、更に分家の直系命、山下住水分命、山ノフモト命の分家が出来ました。直系命の中から淡上方様が出られ、伊邪那岐が子孫として出ました。この頃になると、日本には数十の小さな国のようなものが出来ました。中でも飛騨王朝と飛騨の先程の山下住水分命の子孫が開拓した意宇国=出雲が時の2大政権でした。飛騨王朝と出雲政権は一つの国にまとまろうとして相互に政略結婚の縁組をしました。伊邪那岐の妻である伊邪那美は出雲から飛騨に嫁ぎました。出来た子が天照大神と素戔嗚の姉弟です。この頃になると、筑紫=九州へモンゴル系外国部族が渡来し、三つ巴の勢力争いをし、九州に発生した日本原人を困らせていました。BC1世紀頃です。それで飛騨政権では、天の安川原で全飛騨人が集まり、天照大神とその夫思兼命が主導して会議が開かれ、①国を一つにまとめる②筑紫=九州の平定をする③飛騨はこの頃、寒冷化で雪が多く降り政権維持に支障が出だしたので下界の奈良橿原に大和国を作るという事が全会一致で可決されました。省きますが、様々な原因から出雲と飛騨の関係が悪化し、出雲は飛騨へ返還させました。そして大国主を飛騨の匠が建てた高床式の建物に飛騨の5人の人に監視させこの中に幽閉しました。側室の子事代主は美保神社に幽閉しました。出雲大社は飛騨が建てました。幽閉所としてです。後に出雲大社となりました。この後、天照大神の孫の饒速日命が奈良橿原に大和開拓に行き、弟の邇邇芸命(瓊瓊杵尊)が九州平定に高千穂辺りへ行きました。これが天孫降臨でした。省きますが、後に邇邇芸命の孫のサヌ命=神武天皇が筑紫平定成り、兄御毛沼命に九州邪馬臺国を任せ、美々津の浜から奈良橿原大和を目指し御帰還の途につかれました。進軍・東征ではなく飛騨同族天孫の饒速日命が開拓して待っておられる奈良大和へ筑紫から御帰還されたのです。長くなりますが以後のことは省きます。日本は単一民族で大和朝廷を開いたのは飛騨です。後の中臣氏、物部氏、忌部氏、藤原氏‥など全て飛騨天孫族が祖です。渡来民族は少しあるだけです。大和は奈良を本家に、飛騨天孫が作った九州と津軽大和=アラハバキ王国の3つがありました。皆飛騨が作りました。出雲の事はまた後日お話します。これが「飛騨の口碑」が伝える大雑把な日本国大和朝廷への布石です。存在したのは世界に冠たる日本原人の国日本です。単一民族なのです。
朝鮮人が日本に渡来した件につき「飛騨の口碑」に伝わる事を書きます。前回投稿で古代日本原人が飛騨に生まれ、大淡上方様、淡上方様、天照大神らの飛騨天孫が飛騨高天原から全国に開拓地を広げ、連絡網を築き、外国(特に半島)からの侵略に備えていたのです。天照を遡る事35代前の大淡上方様、15代淡上方様、35代天照大神らは皆、大神通力の持ち主であり、飛騨では普通に行われていた「日抱の御魂鎮目め」で精神統一の境地に入り、将来をも透視され新羅人の侵略やモンゴル系アルタイ民族、インドタミール語族らの日本侵略を予想されそれに備えられました。全国に張り巡らされた情報網も役立ったものと思われます。先ず九州の3部族火照海幸族と火遠山幸族は邇邇芸命が高千穂に行かれ、それ以前に天照大神がその3姫多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫に前もって偵察させていましたので、コオロギ族=インド南端タミール語族の漂着民族で当時高千穂の里辺りへ本拠地鹿児島の笠沙岬から阿蘇外輪沿いに内陸路を通り稲作を始めていた彼らと三姫は好意的関係が築けていて、「このままでは後の2勢力が攻めて来るかも知れないから、飛騨政権に助けて欲しい」との要請を受けていたこともあり、邇邇芸命は先ずこの部族と和議を結びました。そしてその塩土族と言いますが、長の塩土翁(こじ)の娘玉依姫と邇邇芸命と大三島大山祇命の娘木花咲耶姫との間の子鵜萱葺不合命を一緒にさせ親戚関係を作りました。この子供が五瀬命、稲氷命、御毛沼命、そしてサヌ命=後の神武天皇です。そして残りの2部族火照命と火遠命を邇邇芸命は兄弟盃をさせ、また自分とは親子盃をして親戚関係を保つことで和睦し平定しました。邇邇芸命に子供が三人いるとは、この球磨族と隼人族の命二人の事が古事記に書かれているのです。実の子は鵜萱葺不合命なのです。これで九州平定は上手く行き、30年余りを要しましたし、邇邇芸命は亡くなりましたが、孫の神武天皇が、兄の御毛沼命が九州に残り耶麻臺国を統治してくれたので安心して奈良の饒速日命が開拓された大和本家への帰還の旅に出られたのです。尚、御毛沼命の子孫が卑弥呼だと思われます。次に前回、出雲国は飛騨への返還であり、大国主とその子事代主の幽閉であることは既に書きました。大国主は飛騨の天照大神の娘多紀理姫を貰っていましたが、彼は好色過ぎて、次から次へと豪族の娘をあさり、娘達を孕ませ、しかし、浮気性は後を絶たず娘達を悲しませたのです。豪族達の評判も悪くしていました。素戔嗚の子須勢理姫とも恋愛する程の好色でした。須勢理姫は腹違いの兄妹なのです。素戔嗚は諭しますが、言うことを聞かず二人で逃げてしまいました。更に大国主はあろうことか、新羅に11年も行き、向うの新羅女に180人とも言われる新羅の子達を孕ませていたのです。それで向うに行ったままなので、飛騨は何回も談判に穂日命や天若彦が行ったのですが会えなかったのです。一方飛騨から嫁いだ多紀理姫には大国主との間に阿遅志貴高日子根命(加茂命)と下照姫の兄妹がいましたが、余りの好色破廉恥ぶりや長男阿遅志貴命を後とりにもしないので、多紀理姫は飛騨に鈴鹿の猿田彦の随行で戻ってしまいました。子供二人を残して・・・このことが原因で出雲返還となり、幽閉となったのですが、後に新羅で産ませた子供達が父大国主に会いに出雲に来て、父が幽閉されていたのを見てしまいます。最初はおとなしくしていたのですが、やがて出雲返還後治めていた天照の長男天穂日命を惨殺してしまいます。そして奈良大和朝廷飛騨の打倒を画策し、徐々に政権内部、天皇側近にまで忍び込み、後の蘇我氏になって天皇の権威を凌ぐ程になり、皇位までも狙います。神功皇后の新羅退治は事実であり、武内宿禰は日本人ですが、新羅出兵中に出雲新羅が謀反を国内で起こさないように出雲新羅の少彦名の子孫を妃として入れ懐柔されたのです。飛騨天穂日命を惨殺したのは大国主が新羅女に産ませた少彦名です。そして全国の神社を出雲新羅神ですり替えていったのです。
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