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国際通貨体制についてもう一度考える  その2

2011年09月26日

国際通貨体制についてもう一度考える  その2

 現在の為替市場の大混乱に対する根本的対策、とりわけ日本がとるべき方策を考えるために、国際通貨体制についてもう一度考えてみるシリーズの2回目です。

 先回(9月22日付け)では、世界大恐慌で金本位制が瓦解し、第二次世界大戦後に世界の富を独占していた米国を中心として「ブレトンウッズ体制」と呼ばれる「金・ドル本位制」がスタートし、米国が軍事支出や経済へ援助などで世界に積極的にドルを供給して(ばらまいて)世界経済の発展に寄与したものの、米国自身の金準備がたちまち枯渇してしまったところまで書きました。

 ところで、このブレトンウッズ体制の仕組みを考えたのは誰だったのでしょう?

 それは、当時のヘンリー・モーゲンソー財務長官のもとで実務を仕切っていたハリー・デクスター・ホワイト財務次官補です。

 さらにホワイトは戦前、日本を開戦に追い込む直接の原因となった最後通牒の「ハルノート」の草案を書いたとも言われています。
 「ハルノート」は当時の国務長官のコーデル・ハルの名前で書かれているのですが、その草案は財務省所属のホワイト案が採用されたのです。その理由はホワイト案が非常に「過激」で、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が気に入ったからだと言われています。

 そして、このホワイトこそ米国政府の中枢に入り込んだソビエト連邦・コミンテルン(ソビエト共産党の国際組織)のスパイだったのです。
 ホワイトの正体は1948年に発覚し、直後に自殺しています。

 横道にそれますが良く考えてみれば、日本が中国に攻め込んだのも米国と開戦したのも、これによって一番恩恵を受けたのが、中国と日本が極東から攻め込んでくるリスクが軽減されてヨーロッパ戦線(対ドイツ)に集中できたソビエト連邦に他ならないのです。

 当時のコミンテルンは、共産主義による世界制覇を画策しており世界各国に足がかりを築いていました。
まさかと思われるのですが、日本政府や日本軍部の中枢に入り込んでいた形跡もあります。まあ、米国政府の中枢まで入り込んでいたのですから日本に入り込めないはずがないのです。この辺のことは誰も書かないと思うので、そのうちまとめて書きます。

 そして、第二次世界大戦後に自由主義諸国の盟主になった米国の国力を削ぐため(独占していた金準備を失わせるため、もっと言うと帝国資本主義から人民を救うため?)の究極の方策として編み出したのがブレトンウッズ体制だったのかもしれないのです。

 まあ個人的には、日米開戦を画策したのがコミンテルンであると言うことは、ほとんど確信があるのですが、ブレトンウッズ体制はホワイトが米国政府内の自分の権限と能力で考え出したものだと思います。
 その理由は、マルクス経済学の理論では、到底考えつかない仕組みだからです。

 話を戻しますが、何はともあれ金準備が枯渇し、特にヨーロッパ諸国からのドルの金への交換に応じられなくなった米国は、1971年8月15日にニクソン大統領が全く突然に金とドルの交換を停止します。
 この決定は米国議会の承認も得ておらず、行政(財務省)の最高責任者である大統領の職権で行ったものなのですが、ここで1816年以来続いていた金を中心とした国際通貨体制が完全に終了します。

 ドルが突然、金の裏付けをなくしたので当然暴落します。
 翌日から世界の為替市場が閉鎖されたのですが、ただ一国、日本だけが果敢に(無謀に)為替市場を開け、世界中からのドル売りを360円(実際は認められていた0.75%引きの357円30銭)で無限に買い続け、巨額の損失を国民に与えたのです。

 その後、1971年12月のスミソニアン会議で一旦固定相場に戻るも(ドルも、1オンス=38ドルに決め直されるのですが、金への交換は約束されませんでした)、まもなく再び混乱して維持できず、1976年1月に世界中が正式に変動相場制になって現在に至っているのです。

 ドルも1978年には1ドル=175円と、固定相場時代の半分以下になってしまいました。

 しかし、1971年8月のニクソンショック以降、現在に至るまで国際通貨体制はドルを基軸通貨とし、G7やG20などを通じた主要国の協調のもとに危ういながらも存続しているのです。

 1980年に就任したレーガン大統領は、軍事力の強化と減税と規制緩和(小さい政府)で米国を立て直し、1985年2月には1ドル=260円台まで回復させました。
 これを支えたのは、ちょうど日本が居住者の対外投資を自由化し、国内金融機関が大量にドル資産を購入したこともあります。また日本が大損する結果となるのです。

 その後、ドル高が行き過ぎて米国内の産業界から悲鳴が聞こえてきたので、1985年9月に「プラザ合意」で各国が初めて協調してドルを押し下げる介入を行い、ドルは2年後の1987年秋には120円と、これまた半値以下になってしまいました。

 要するに、1971年にニクソンが金とドルの交換を停止して以来、金の呪縛から逃れた米国はドル相場を強力な外交カードとして、基軸通貨の特権を最大限に利用して行くのです。

 続きます。

平成23年9月26日

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