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赤穂浪士討ち入り

2011年12月14日

赤穂浪士討ち入り

 本日12月14日は赤穂浪士討ち入りのあった日です。最近あまり歴史ものを書いていないので今日はこれについてです。

 正式には討ち入りがあったのは旧歴の元禄15年12月14日で、新暦では1703年1月30日のことなのですが、今でも討ち入りは12月14日というイメージがあります。

 さて事件とは、前年の元禄14年3月14日(新暦では1701年4月21日)に、幕府から勅使饗応役を拝命した播州赤穂藩主(5万石)・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城殿中の松之大廊下で高家旗本(4200石)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に切りかかったものの、取り押さえられて殺害出来ず、長矩は殿中抜刀の罪で即日切腹、赤穂藩も改易(取りつぶし)となりました。

 そして主を失った赤穂藩筆頭家老(1500石)・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)をはじめとする47浪士が、元禄15年12月14日(実際は翌15日未明)に本所松坂町(現・東京都墨田区両国3丁目)の吉良邸を襲い、吉良義央その他を殺害したものです。

 まあ、この話は皆様も良くご存じのはずですが、もう少し背景を掘り下げてみましょう。

 長矩が拝命した勅使今饗応役とは、天皇・上皇が江戸にさしむける使者(勅使)を接待するもので、禄高が5万石程度の外様大名が順番に指名されていました。饗応にかかる費用一切は「自腹」負担でした。

 因みに、この勅使を接待する伝奏屋敷は、今の東京駅・丸の内口の日本工業倶楽部ビルのあたりにありました。

 また高家(こうけ)というのは、幕府の儀礼や典礼を司る役職で、これら勅使接待を無難に進められるように饗応役の大名を指南する役目もありました。
 主な高家は吉良・一色・今川などで足利家一門です。また幕府での地位は禄高1万石以下の旗本ですが、官位は普通大名より上でした。

 ただ、この高家の経費も「自腹」だったようです。通説では長矩が吉良に対して支払った「賄賂」が少なかったため、吉良に意地悪をされてそれが殿中での刃傷沙汰の原因とされているのですが、実際は「賄賂」ではなく高家へ指南料は饗応役の必要経費でした。

 長矩がケチったようですね(一説には鰹節2本だけだったと言われています)。

 時の幕府は5代将軍・徳川綱吉(在位1680年~1709年)の時代です。

 綱吉は3代将軍・徳川家光(在位1623年~1651年)の4男で、本来は将軍になるチャンスはありませんでした。事実、長男の徳川家綱が4代将軍(在位1651年~1680年)になり、綱吉は上野国館林藩主(25万石)で終わるはずでした(3男の綱重も甲府藩主となりました。2男は夭折しています)。

 ところが1680年に家綱が世継ぎを残さず死去し、綱重もそれより早く死去してしまっていたため綱吉に将軍職が回ってきました(実際はもう少しドロドロしているのですが割愛します)。

 まあ、3代将軍・家光が男色であったため世継が出来ないことを危惧した乳母の春日局が、江戸中から家光の好みそうな(つまり宝塚の男役みたいな)女子を何人も江戸城へ引き込んで「大奥」を作り、結局3人の(実際は4人)の世継ぎ候補を作っておいたのが早くも功を奏したわけです。でなければ歴史が変わっていました。

 余談ですが家光が最初に興味を示した女性は「尼さん」(お万の方)だったようです。

 話を戻しますが浅野長矩が吉良義央に切りかかり、長矩だけが即日切腹となり吉良はお咎めがなかった処分が不公平だとされ、これが赤穂浪士討ち入りの直接の原因だと言われています。しかしこれは殿中抜刀の罪が厳密に適応されただけで、抜刀しなかった吉良は罪に問えなかっただけです。

 実際、取り調べでは吉良が「刀に手をかけたか」のただ一点だけが繰り返し尋問されたようです。形式のみを重視する「裁き」は昔も今も変わっていないようですね。
 この決定に、綱吉が重用していた側用人の柳沢吉保の「意向」が働いたという説も、単に柳沢は「将軍への取り次ぎ」の役目を忠実に果たしていただけで、当たっていません。

 この時点の綱吉の最優先事項は生母・桂昌院の従一位叙任であり、それが取り消されないように皇室への恭順の意を示しておきたかったのでしょう(1702年に叙任されました)。

 綱吉は、これ以外にも天皇家の禄高(御料)をそれまでの2万石から3万石へと引き上げています。つまり天皇家は中小大名並みの禄高しかなかったわけで、公家全員の禄高を加えても10万石くらいだったようです。
 因みに徳川将軍家の所領(天領)は800万石くらいあったはずです。

 それから「塩田を多数抱える赤穂藩をとりつぶして天領にしよう」と綱吉あるいは柳沢が考えたという説も、赤穂城は改易に伴う明渡し後に速やかに、織田信長の小姓・森蘭丸の弟を始祖とする森家が城主となっており、別にそこまで考えていなかったようです。

 まあ、やはり「赤穂浪士討ち入り」はドラマで見たほうが面白そうです。

平成23年12月14日

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戦後まもなくのころ、映画館は忠臣蔵が定番の正月興行であった。映画館は満員で寒さに震えながら立ち見をしました。当時、映画を見るのは贅沢なことで正月にしか行かなかった人たちがたくさんいたとおもいます。

忠臣蔵の英訳は47 Roninで日本人ととらえ方が異なり拍子抜けします。

封建道徳というか美学というか、集団主義の日本の原型みたいなもので今の日本は戦後はいってきたアメリカ流、個人主義と従来の日本型集団主義のハイブリッドかな。

徳川幕府はあだ討ちを規律で処罰し幕府の権威を保つか、民衆の人気のもりあがりにどう対処するかまよい儒学者 荻生徂徠に相談して決めたようです。義士たちのなかには死罪になるとは思っていなかったものもいるという。
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